大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和52年(う)1160号 判決

主たる事務所所在地

大阪市阿倍野区阿倍野筋一丁目六番一六号

医療法人

博仁会

右代表者

小野博人

本籍

大阪市阿倍野区阿倍野筋一丁目四七番地

住居

同市住吉区万代東一丁目二七番二四号

職業

歯科医師

小野博人

昭和一九年一月三一日生

右両名に対する法人税法違反被告事件について、昭和五二年四月二八日大阪地方裁判所が言渡した判決に対し、原審弁護人矢田部三郎から控訴の申立があったので、当裁判所は次のとおり判決する。

検察官 杉本金三 出席

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人上坂明、同丸山哲男共同作成の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。

控訴趣意第一、事実誤認の主張について

論旨は、要するに、(一)被告人小野博人には、原判示第一ないし第三の各法人税ほ脱の認識もなく、又これを母小野アイと共謀したこともないのであるから、これを肯定し同被告人を右各事実について有罪とした原判決は事実を誤認したものである、(二)原判決が、原判示第一事実の所得金額二二、九八三、四五七円の計算において、控除すべき未払敷金三〇〇万円(昭和四七年四月一日付の博人会と小野博人間の建物賃貸借契約に基づき前者から後者に支払うべき敷金三〇〇万円)を未払債務に計上しなかったのは、事実を誤認したものである、というものである。

論旨(一)について。しかしながら、所論にかんがみ、関係証拠を精査すると原判決がその挙示する関係証拠により、原判示各事実を認定したのは、いずれも相当と考えられるのであって、記録及びその余の証拠を検討しても所論の違法は認められないのである。

則ち、被告人小野博人(第七回)及び梶岡秀年(第四回)の原審公判廷における各供述、右両名の検察官に対する各供述調書及び大蔵事務官に対する各質問てん末書(抄本を含む)、石川郁夫の大蔵事務官に対する質問てん末書、鎌田美穂子の昭和五〇年一〇月一六日付大蔵事務官に対する質問てん末書抄本によると、原判決が弁護人の主張に対する判断の一で認定した諸点のほか、被告人小野博人は各年度の法人税の確定申告に当り、事務長梶岡秀年から試算表等による報告を受けた後、税理士事務所に確定申告書の作成を依頼し、出来上った申告書について右事務所の担当者石川郁夫の説明を受け、しかる後にこれに代表者として署名捺印したことが窮われ、これらの事実によると、被告人小野博人は、収入除外ないし法人税ほ脱額の細部或は具体的金額についてまでは認識していなかったとしても、少くとも、右の点の概括的な認識は有していたと認めるのが相当であり、更に被告法人の組織及び営業の実態、被告人小野博人の同法人の代表者としての立場、なむびに小野アイとの身分上及び生活上の関係等の諸点を併せ考えると、たとえ同法人における金銭の出納、管理は事実上主として小野アイがこれに当っていたとしても、被告人小野博人は右小野アイと共謀のうえ、本件各犯行に及んだものと判断するのが相当である。以上の認定に反する所論挙示の証拠は、前掲証拠に照らし、にわかに措信しがたい。

ちなみに、被告人小野博人は原審第六回公判廷において、母アイが行ったことの責任を自分が負うことにし、鎌田美穂子、梶岡秀年にもそのように供述するよう指示していたため、自分が収入除外を指示したという内容の同人らの検察官や大蔵事務官に対する各供述調書が作成されたもので、実際には自分は全く収入除外を関知しなかったものと弁解しているが、鎌田は、原審証人として、捜査官に同被告人から収入除外を指示されたと述べたのは自分の判断によるものであると供述し、梶岡も、原審証人として、同被告人の指示で虚偽の供述をしたとは述べておらないばかりでなく、収入除外行為への同被告人の加担の事実(同人は松原分院の分につき、売上除外の金額は小野アイが来たときは、小野アイに、アイが都合が悪いときは院長に渡していた旨)を明確に述べており、又、同被告人自身も原審第七回公判で、実際に経理を担当した母が(収入の一部を)裏に廻していたということは多少は分っていた旨を述べ、収入除外の認識を肯定しているばかりでなく、捜査段階では収入除外に自己が関与したことを具体的に供述しているのであるから、同被告人の前記弁解は措信し難い。

なお所論は、梶岡秀年の検察官に対する供述調書を原審が刑事訴訟法三二一条一項二号によって採用したことの適否や被告人小野博人の検察官に対する供述調書や大蔵事務官に対する質問てん末書の任意性を問題とするが、梶岡秀年の右調書の内容と原審証人としての供述内容の相違は明らかであり、調書作成時と証言時の時間的関係やそれぞれの供述内容等を検討するといわゆる特信性も肯認し得るから、右梶岡秀年の調書は刑事訴訟法三二一条一項二号の要件を具備するものと認め得るし、又記録を精査しても、被告人の右各調書の任意性を疑うべき情況は全く見当らない。

当審の事実調べの結果によっても以上の判断を左右するに足りず、論旨(一)は理由がない。

論旨(二)について。所論の未払敷金三〇〇万円の点は原審で主張、立証されていないばかりでなく、仮りに右未払金を負債(損金)に計上するとしても同時に簿記の手続上、同一金額の敷金を資産(益金)として計上しなければならず、その結果、資産の増、敷金三〇〇万円、負債の増、未払金三〇〇万円として仕分けられ、差引きした財産の増減は零となる筋合であるから、これによって原判示の所得金額は何等影響を受けないものといわねばならない。結局、論旨(二)も理由がない。

控訴趣意第二点、量刑不当の主張について

論旨は、要するに、各被告人に対する原判決の刑が重きにすぎるというのである。そこで記録を調査し当審の事実調べの結果を併せ検討するに、本件犯行の動機、様態、罪質、法定刑や処断刑の範囲、法人税ほ脱額の合計が二〇六五万円余の多額に上っていること、その他諸般の事情に徴すると、所論にかんがみ各被告人のため有利な事情と考えられる点を十分斟酌しても、原判決の刑が重すぎるとは認められない。

よって、刑事訴訟法三九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 西村哲夫 裁判官 青木暢茂 裁判官 笹本忠男)

昭和五二年(う)第一一六〇号

法人税違反被告事件

○ 控訴趣意書

被告人 医療法人博仁会

同 小野博人

右の者らに対する法人税法違反被告事件につき、弁護人は次のとおり控訴の趣意を明らかにする。

昭和五二年一一月一〇日

右弁護人 上坂明

丸山哲男

大阪高等裁判所

第一刑事部 御中

目次

第一、事実誤認について

一、原判決における被告人小野博人の「共謀」認定の事実について

(一) 原判決認定の理由の一について

(二) 原判決認定の理由の二について

(三) 〃 三 〃

(四) 〃 四 〃

(五) 〃 五 〃

(六) 〃 六 〃

二、共謀を否定するその余の積極的事実について

(一) 博仁会設立前後の経過について

(二) 博仁会設立の動機及び運営について

(三) 小野博人の職務の実態

(四) 小野アイの事業活動

(五) 重要な事実誤認-本院の事務所について-

(六) 自費診療収入の売上一部除外について

1. いわゆる売上除外の指示について

2. 売上除外の方法及び除外金の管理・使用について

三、いわゆぬ「共謀共同正犯論」について

四、まとめ

五、被告法人のほ脱金額について

第二、量刑不当について

第一、事実誤認について

原判決には以下に述べる如き事実の誤認があって、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであり、刑事訴訟法三八二条に該当する事由が存すると言うべきである。

一、原判決における被告人小野博人の「共謀」認定の事実について

原判決は小野博人が小野アイと共謀して本件犯行を為した旨判示している。そして右認定の根拠となる事由として数点の事実が摘示されているが、これらは以下に検討する如く、何ら小野博人の「共謀」の事実を認定する理由にならないものであるか、又は事実を誤認しているものである。

(一) 理由の一は、被告人小野博人が「松原分院における収入除外分の伝票や現金を梶岡秀年から受取っていた」というものである。確かに梶岡秀年の公判廷での証言中には右認定に沿う如き部分が存するが、右は全く事実に反するものである。

1. 第一に、同人自身の証言中にも、右の事実と矛盾する、或いはこれを疑わせる部分があることである。

すなわち、同証人は一方で前日の松原分院における売上除外分の現金とそれに見合う伝票を院長(小野博人)に渡し確認してもらったうえ、伝票は同証人が処分していたから、その段階で、院長にはその日にはいくらの売上除外が為されているかがわかるわけである旨述べている。

ところが、他方では売上除外金はずっと続けて院長に渡していたのかとの質問に対しては、アイが来たときには同人に渡していましたが、アイの都合の悪いそのほかのときには院長に渡していましたと述べ、売上除外金は殆んどアイに渡していたのかとの質問に対しても「はい」と肯定している。

このことのみからしても前記原判決の認定には疑問がある。

また、同証人によれば、院長は医者であるから実質面の経理担当者ではなく、また直接の上司は小野アイであったから、売上除外の指示をしたのがそもそもアイであったというのであれば、除外金や伝票をアイに渡したというのが自然である。

事実、同証人は昭和四九年一二月に閉鎖した天下茶屋分院に関してもアイに現金と伝票を同じように渡していたと言うのであるから、松原分院の除外金のみをことさらアイに渡さず院長に渡していたというのは理解に苦しむ。

こうして、原判決認定の根拠となっている梶岡秀年の公判廷での証言は全く信用できないものである。

2. 第二に、梶岡秀年の昭和五〇年一〇月一六日付大蔵事務官に対する質問てん末書(抄本)によれば、「経理事務の実権は小野アイがにぎっており、自由にならない」、売上除外の方法に関し「除いた伝票は小野アイに報告し、確認してもらったのち、その場で破棄又は焼却する。抜いた金は小野アイに渡し、本勘定分の現金は私かアイ、または鎌田が保管し、二日に一回程度銀行へ預ける」という実情であった旨述べている。

これによれば、原判決認定の事実が誤りであることは明白である。

3. 第三に、被告 人博人会の事務所は昭和四六年一二月に設立されて以来、大阪市住吉区万代西二丁目三五番地の小野アイの自宅にあったものであり、本院にこれを移したのは後に述べるように昭和四九年一二月以降のことである。

他方、これまた後述の如く小野博人は昭和四八年五月以降は、その後婚姻した妻久美子との間に子供が生まれることとなったため、住居を大阪市住吉区万代東一丁目二七-二四に移し、母アイとは別れて住むようになっていたものである。

而して、梶岡も博人会入社以来、昭和四九年一二月までは小野アイの自宅において事務をとっていたものであり、梶岡の勤務時間中は小野博人は本院において午前九時から午後八時頃まで昼休みの一時間を除き診療行為に追いまくられていて、原判決認定の如く梶岡から収入除外分の伝票や現金を確認して受取ったりしている余裕はなかったものである。

4. 第四に、昭和四七年七月より小野博人の弟の博治が松原分院の院長(管理医師)を行っていたため、同分院の当日分の収入金については小野博治が担当者より受取り、これをアイと同居していた自宅に持ち帰り、それを当日のうちにアイが収入除外分と公表分とに分けていたというのが事実であり、梶岡は翌朝、これをアイが渡して帳簿につけさせていたにすぎないものである。

右の関係は昭和四九年一二月に事務所をアイの自宅から本院に移し、梶岡が本院に移ってからも全く同様であった。

従って、そもそも梶岡が松原分院の収入除外分とそうでないものとを分けたりした事実がなかったのであるから、小野博人が梶岡から収入除外分を受取るということもあり得なかったものである。

(二)、理由の二は小野博人において、「被告法人が支出する交際費や各歯科大学の関係教官に対する医師紹介依頼料につき、それらが簿外現金によるものであることを十分に認識していた」というものである。

被告人小野博人及び小野アイの検察官に対する各供述調書・大蔵事務官に対する各質問てん末書には、右認定の交際費や医師紹介依頼料を簿外現金から支払った旨の記載があるのは事実である。

しかし、小野博人としては、もともと右交際費や依頼料については、その都度母親のアイから必要分づつを受取っていたものであり、それが簿外現金から出されているか否かについては全く認識していなかったものである。

事実、同被告人としては昭和五〇年八月二一日に阿倍野税務署から特別調査を受けたためその後修正申告をすることとなったが、その段階になって始めて右支払が帳簿上に記載されていない事を知り、関係者と相談の上簿外現金からの支払ということで説明しようという話になったに過ぎない(後述の簿外支出に関する点を参照)。

このことは、同被告人の公判廷での供述或いは検察官に対する供述調書等で明らかな如く、同被告人としてはそもそも自分の給料すら同人に子供が生まれたため昭和四八年一二月から生活費として一カ月一〇万円づつを小野アイからもらうようになったのであり、それまでは本来同人がもらう筈であった給料さえもきちっと全額もらっておらず、小遺い的に必要分をもらっていたにすぎないことに照らして明らかである。この点は小野アイの51・1・19付質問てん末書(問三に対する答)によれば、昭和四八年一二月から博人に子供が出来たので生計費としては小野博人に月一五万円を渡していたが、その内訳は一〇万円を妻に渡し、残り五万円が小遺銭であった。それ以前は博人はアイから五万円を小遺銭としてもらっていたにすぎないとされていること、同じくアイの51・5・10付検察官調書六項によれば、アイ・博人・博治ら個人の収入金についてはアイが全部預かり、各人の入用分をその都度渡していたとされていたとされていること(尚、第五回公判における小野アイの証言)とも符合する。

そのため小野博人の51・2・2付質問てん末書の問二~問五に対する答及び同51・2・9問七に対する答においても明らかな通り、同被告本人としては、自分の役員報酬の内訳についても給料支払明細表を見なければ説明できない程であったのである。

従って、小野博人に対する各質問てん末書(50・10・14付問一六~一七、51・2・17付問八~一一に対する答)、及び51・5・12付検察官調書二項において、交際費や医師紹介依頼料につき原判決の認定に沿う如き記述があっても、これらは小野博人が現実の行為の際、各支出が簿外現金から出ているか否かについて認識していたのではなく、税務署の調査後、あるいは本件の告発後の取調べの結果簿外支出となっていることが明らかになったため、辻つまを合わせるべくそのような調書が作成されたにすぎないというのが真相である。

例えば小野博人の51・5・12付検察官調書二項中には、「雇用医師紹介依頼料と関係大学教授に対する飲食費中、約三分の二についてはその都度私の母から博人会の裏に廻したお金の中から出してもらってその支払いにあててきたのです」との記述があるが、具体的な支出は何一〇回かにわたって為され、その都度全て小野アイから必要金額をもらっていたのに、その三分の一が正規の支出であり、残りの約三分の二が裏金からの支出であるなどというのは結果論からこじつけたものにすぎないことが明白である。

同様に右検察官調書二項或いは同人の51・2・17付質問てん書問八に対する答において、被告法人の年間交際費、接待費の限度額が四〇〇万円であったから云々という記述についても結果的に後からみてそうであったというにすぎない。けだし、本件で問題とされた交際費は同人の51・2・17付質問てん末書問一〇に対する「推定」の答えにおいてすら、各年度の始めから終りまでの間に何回にもわたって支出されているのであって、被告法人の四〇〇万円という交際費の限度をこえてから右支出が為されるようになったものではないからである。この点は被告法人全体の経理を統括していた小野アイすら、当該の交際費が年間限度額の枠内か否かについて正確にはわからなかった筈である。ましてや、経理を担当していなかった小野博人としては、いちいちの交際費が限度内か否かについて問い合わせたり、聞いたりして受取っていたわけではないから全くわからなかったものである。

こうして原判決が小野博人の共謀認定の理由の二として掲げる点も、全く事実に反するものである。

(三)、理由の三は「被告法人が有限会社畠山歯科商店から簿外で金の仕入れをなすつど、小野アイに頼んで簿外現金からその代金を支払ってもらっていた」という点である。

しかし、事実は被告法人が畠山商店から金を簿外で購入したことは一回も存しなかったのであるから、右認定は全く事実に反するものである。

即ち、被告法人としては従前から畠山商店より金の購入をしてきたのは事実であるが、購入代金の支払方法はすべて購入の都度納品と引換えに小切手で支払ってきていたものであり、そもそも現金での購入をしたことがなかったのである。

そして、被告法人における金、銀、貴金属や五万円以上の高い材料を購入する際はすべて本院扱いとされており、購入した貴金属の保管は鎌田美穂子が為していたほか、仕入関係については小野アイが月々の払いを見て一切担当していたものであり(小野アイの第五回公判調書六丁裏)、被告人小野博人が金の仕入れ等にタッチしたこともなかったのである。

もっとも小野博人の50・10・14付質問てん末書問一五ないし一七、問51・2・17付てん末書問二以下に対する各答え、並びに51・5・11付検察官調書九項中には原判決認定に沿う供述が為されているが、被告人の各供述記載を詳細に検討すれば明らかな如く、右は昭和五〇年八月に被告法人が税務署より査察を受け、修正申告を余儀なくされたため、その段階で売上除外金に見合う簿外仕入れ品目ということで後日意図的に作られたものにすぎず、全く事実無根のものである。

この点は、例えば小野博人に対する50・10・14付質問てん末書において、「収入金除外の金額が大口になったので(有)畠山歯科商店の簿外の金及び貴金属の仕入や医師の頼み料として手渡すお金等を大体計算して経費として損益計算書を作成して修正申告をしました」(問一五の答)、「(有)畠山歯科商店の簿外仕入については収入金を除外しておりますので、それに見合うべく金の仕入も簿外にしなくては収入金の除外がばれるので簿外にしました」(問一六の答)とあり、また同人に対する51・2・17付てん末書問六に対する答の末尾には、「当初の質問調査(昭和五〇・一〇・一四問一七)で私が申し述べました各期別における簿外仕入の金額は、記憶のみによる不正確なものでありました」とあること、等に照らせば明白である。

仮りに、小野博人に対する51・2・17付質問てん末書で述べられている如き金の簿外仕入が畠山商店から為されているとすれば、畠山商店の得意先は二〇〇軒以上もあるが、同社の金のいわゆる「上様売り」分の八〇パーセント以上を被告法人が購入していた計算となってしまう。しかし、これは常識的に考えてもおかしいし、その後二年間の被告法人の金の購入実績と比較しても全くそれ以前の三年間のそれがとび抜けて多額であり、実際と明らかに相違することが窺えるのである。

右てん末書で小野博人の供述がたまたま破綻を示していないのは、畠山商店の帳簿中、いわゆる「上様売り」分が一括して記載されているため、これをすべて被告法人の簿外現金仕入分に推定した結果にすぎないもので、事実は全く相違するのである。

(四)、理由の四は被告人小野博人が「弟と共同で購入した三重県の山林代金の圧縮分についても、小野アイに頼んで被告法人の裏金からその支払いをしてもらっていたこと」である。

右山林売買代金のいわゆる圧縮分につき、これが被告法人の売上除外金から支払われていることは事実であるが(小野アイの51・1・19付質問てん末書問八の答、51・3・18付同問三の答、51・5・10付検察官調書七項)、右代金の支払関係は一切小野アイが為しているので、被告人小野博人自身は当時どのような金からそれが支払われたかは全く知らなかったものである。

もっとも、小野博人の51・1・26付質問てん末書問七~問一二、同51・2・11付問一五以下に対する各答、及び同51・5・11付検察官調書一〇項等には、被告人小野博人が当時から事実を知っていたかの如く記載されているが、もともと被告法人については勿論、家族の個人預金等についてもすべて小野アイがこれを所持し、管理していたものであるから、事実はアイがいくらを表のどの預金から支払い、残りをどこから払ったか等は当時小野博人としてはまったくわからなかったものである。

このことは小野博人に対する右質問てん末書や検察官調書からも容易にうかがうことができるものである。例えば、右51・2・11付質問てん末書問一五以下における答え方を見れば、いずれも国税局担当者から関係書類を示され、或いは査察官調書を示されようやくわかった状況が示されている。とくに51・5・11付同人の検察官調書一〇項中には、はっきりと「この山林の売買代金の出金について査察官からその出所を解明するように云われ、調査した結果」ようやく判明した旨の記載があり、小野博人が事実を知ったのは税務署の調査後のことであることを明確に裏付けている。

小野博人と博治名義で購入した本件山林の表面上の売買代金中に、母アイ名義の預金口座から五〇万円が出されている事実も、通常の買主と代金支払人との関係からすればおかしいことであり、このことも結局小野アイが本件山林の購入代金支払の全てを処理していたことをうかがわせるものである。

さらに、原審では明らかにされていないが、問題の本件山林の話はアイの友人である高谷真一から持ち込まれ、高谷の知り合いという東守夫を紹介されたうえ、購入交渉もすべてアイと東守夫が相談して行ったものである。そして契約代金の圧縮なる話も、売主側の事情として息子が交通事故を起こし示談金を払う必要があるほか、娘の結婚などがあり金が要るとかで懇請され、これを承諾したにすぎず、被告小野博人としてはこうした圧縮の話すら後に査察を受けたことから知るに至ったものであり、ましてや右圧縮金を裏金から支払うなどという事情は当時夢にも知らなかったことである。

従って、小野博人が裏金の存在や圧縮の話しを知ったうえ、圧縮分を裏金から払ってもらったとの原判決の認定は全く誤まりである。

(五) 理由の五は「老朽化した本院の新築資金を捻出するため収入金の一部を裏にして預金にまわすなどの話を小野アイとしていたこと」というものである。

本件犯行の動機として老朽化した本院の改築が問題とされていることは事実であるが、この本院改築の話は被告法人の理事者間で話題にのぼった際には一般的な希望としてのそれであって具体的な改築のための設計や見積りが行われるなどのことは全くなかった。

とりわけ、そのための資金を裏金でつくる等の話は皆無であるし、これについて被告人小野博人がアイとの間で話しをした事実はない。

この点は後に詳述する如く、母アイが被告法人の現金、簿外収入金、被告人小野博人はじめ博治その他家族の個人収入等の一切を掌握し、管理していた反面、被告人小野博人らが個人の収入は勿論、簿外の収入金についても、その内容は勿論、仮名預金名義すら知らなかったことに照らせば明白である。

尚、被告人小野博人の51・5・11付検察官調書五項には、原判決認定のとおりの自白があるが、右自白は後述する如く売上除外金に関する被告人小野博人の指示、その他、前記簿外現金の流用ないし支出に関する自白と同様全く事実に反するものである。

とくに本件本院改築のための裏預金の話しなるものは、原判決においても「主として小野アイであったことがうかがえるのであるが」と判示している収入除外の指示を被告人小野博人がした旨自白する前提として述べているにすぎない。

しかるに後述のとおり、収入除外の指示については勿論、その後の収入除外行為、除外金の受領、保管、支出等について一切関知しなかった同被告人が、原判決認定の如き点について話しをする筈がないものである。

(六)、理由の六は被告人小野博人が「各事業年度の確定申告書にいずれも自署押印をしていること」というものである。

しかし、右確定申告書に対する小野博人の自署押印は、それまでに母アイと税理士が打合わせをして決めたものを博人は言われるまま形式的に為したにすぎず、内容的に虚偽かどうかは全くわからなかったものである。

本件で問題となった昭和四七~四九年の各事業年度においては総額約一億円前後の売上げ高という見当ぐらいしかついていなかったところ(具体的な金額については原審の弁護要旨一、(三)の収入表記載のとおり)、その一割位が過少申告であったか否かは計理面において日頃から全くタッチしておらず、内容的にもズブの素人である被告人小野博人としては到底わからなかったものである。

事実、昭和四七年秋に、被告人小野博人の個人経営時代の所得税に関し税務署から調査を受けた際にも、母アイと久保税理士との間で協議を行い後始末をなった経緯があり、小野博人は右の問題に関しても一切関与したことがなかったものである(同人の51・5・11付検察官に対する供述調書一〇項、小野アイの51・5・10付検事調書一〇項)。

また、久保税理事務所の被告法人担当者である石川郁夫氏は亡父小野博が個人経営していた時代から世話になっていたが、被告人小野博人が右石川氏と被告法人の経理内容について話し合ったりしたのは本件売上除外金が問題とされて修正申告せざるを得なくなったときが始めてであり、それもたまたま当時母アイが昭和五〇年七月に交通事故にあい入院中で、とりわけ負傷個所の痛みのほか、めまい・吐気・しびれ等がひどかったため(50・12・11付、51・5・12付、52・8・11付、各診断書)、止むなく被告人小野博人が石川氏と相談して処理しなければならなかったという事情からである。

従って、本件で問題となっている各年度の確定申告書については母から申告直前に書類を示され、自署押印を求められたのみで内容の検討すらしたことはなかったものである。

右の点は昭和四九年一二月まで被告法人の事務所が自宅にあった関係上、経理は勿論、確定申告書の作成及びそれに伴う石川氏との打ち合わせ、等もすべて自宅でアイが行っていたのであり、病院で診療行為に専念しており、経理について何もわからない被告人博人に相談や打合わせもなかったことに照らしても明らかである。

従って、かかる事実に照らせば、被告人小野博人が形式的に確定申告書に自署・押印をしていたという点は何ら本件「共謀」を認定する根拠とならないものである。

二、共謀を否定するその余の積極的事実について。

(一) 博仁会の設立前後の経過について。

博仁会の理事長は創立以来、被告人小野博人名義であるが同人は、実質は診療行為に従事し、その他は僅かに歯科医師の雇用等に関与したにすぎず、金銭の受入、支出、税金関係などの事務、その他の実質上の経営は、小野アイがしていたものである。

この理解の便宜のため、博仁会の前身である小野博が経営し始めた小野歯科医院(小野歯科診療所)の開設以来の状況を以下に年表風に示す。

1. 年表

(1) 被告人小野博人の亡父小野博(明治四三年八月一六日生)は、昭和九年大阪歯科医薬を卒業した後間もなく、博仁会が現在本院として使用している大阪市阿倍野区阿倍野筋一丁目六番一六号所在の木造二階建建物を借りうけ、同所において小野歯科医院を開設し経営してきた。

(2) その後、小野アイ(大正一五年二月二三日生)は、昭和一九年に小野博と結婚し、その間に長男博人(昭和一九年一月三一日生)、二男博治(昭和二二年三月三一日生)、長女晴美(昭和二五年二月二二日生)をもうけた。

(3) 博はその間、昭和二八年三月現住所である大阪市住吉区万代西二丁目三五番地の木造二階建居宅(以下住吉区万代の家という)を買取り、間もなくこれに入居した。その後二、三年は小野博のいわば全盛時代であり(高額所得者番付に入ったほどであった)歯科医師五、六名を常時雇っていた。

(4) その後、小野博は、昭和三三年一一月三日に脳溢血で倒れ入院し、その後はついに退院することなく、昭和三七年一月三一日死亡した。

(5) 右の小野歯科医院には、小野アイの実妹鎌田美穂子(昭和五年二月一日生)が昭和二〇年から事務員として勤め、ほとんど一人で切り廻していたが(時には一、二名の補助をつかった)、博の入院後間もなくから小野アイはこの看護のかたわら、歯科医院の、医師 護婦等の募集、等の対人的関係を主とし、その他重要な事項については美穂子と相談して処置していた。

(6) 小野博が、前記の中風で倒れた後は、小林繁信(アイの末妹和子の夫)を管理医師として、医院を維持してきたが、次第に歯科医師が減り、博死亡当時は二名になってしまった。博死亡後は、引続き小林を管理医師としてアイが開設者となり、自ら歯科医院に現実に出て、引続き経営してきたが、収入は激減した。

(7) アイは、その後は、長男博人や二男博治が歯科医院の免許を得て、この小野歯科医院の跡を継ぎ再興してくれることを生きがいにして子供三人を養育するかたわら、前記のように小野歯科医院を維持することに奔命した結果、昭和四三年三月長男博人が歯科医師の免許をうけ、同年六月になって同人が歯科医師として小野歯科医院を引きつぎ開設するに至ったが、当時は医師は漸減した結果、博人一人となった状態である(小林繁信は、義甥の博人が一人前になり開業するのをまって、昭和四三年八月に小野歯科医院をやめて独立し開業した)。

(8) その後、小野博人は、昭和四五年八月には、試験的に大阪市阿倍野区元町に建物を賃借りし、小野歯科クリニック(天下茶屋分院)を開設した(同分院は、昭和四九年一二月に閉鎖した)。

(9) その後、昭和四六年四月に二男小野博治が歯科医師免許を得、小野歯科診療所に加わった(主として松原分院の管理責任者となる)。

(10) その後、昭和四六年一二月二二日に医療法人博仁会を設立し、昭和四七年二月一日から、同法人が前記小野博人個人経営にかかる従来の小野診療所の経営を引きつぎ、以来法人として経営し今日に至っている。

(11) 同法人は、昭和四七年五月には、松原市阿保三丁目五番一六号に松原分院を設置した。

(12) 同年八月に小野博治の学友であった梶岡秀年を同法人の事務長として採用した(但し、梶岡が事務長となったといっても、同人は、それ迄他に勤務し営業マンとしての経歴しかなく、経理や帳簿のことは知らず、従って後記のとおり昭和四九年一二月に本院に移るまでは単に事務見習の立場で、前記住吉区万代にあるアイの自宅の離れを事務所として朝九時にここに出勤して夕方五時までアイの指示をうけて事務の補助をしていたにすぎない)。

(13) 同人は、昭和四九年四月より大阪歯科大学研究室に毎土曜日の午前に研究室に通っている。

(14) 同年四月それまで同法人の事務を手伝っていた小野晴美が結婚し、退職した。

(15) 同年一〇月天下茶屋分院を閉鎖した。

(16) 同年一二月に佐伯建設に請負わせて本院の裏に建てていた看護婦の寮を改造して、法人の事務所(約六坪)をその寮の階下に設け、梶岡はここで事務をとるようになった(それまでは、梶岡は前記のように住吉区万代の小野アイの自宅の離れの一室で事務をとっていた-このことは、従来の記録には表われていなかったが、後記の梶岡の供述の信憑性、小野博人の供述の任意性等を見るとき重要なことである)。

(17) 昭和五〇年七月六日小野アイは交通事故で負傷。意識不明となり入院(その後昭和五一年四月一五日に退院)。

(18) 昭和五〇年八月二一日阿倍野税務署の特別調査が博人会の取引銀行になされた。

(19) 同年八月三〇日修正申告書を提出。

(20) 同年一〇月一四日本件調査が法人に対し始まる。

(21) 昭和五一年四月一九日法人税再修正申告書を出し、同月二六日納付した。

(22) 同年四月二八日国税局より告発される。

(23) 同年五月一五日本件起訴

(24) 同年五月二二日小野アイ症状固定

(25) 同年六月 梶岡円満退職す。

2 経営主体の変遵と実質上の経営者

右に示すように、医療法人博仁会は、小野歯科医院を引きついだものであるが小野歯科医院当地からみれば、その経営主体は次の四つがある。

(1) 昭和九年小野博の開業より同人が昭和三七年一月死亡するまでの間。この経営主体は小野博であるが、この中にも次の二期がある。

(イ) 昭和九年開業から、昭和三三年小野博の中風で倒れるまで。-この間は、小野博が直接経営管理していた時期である。

(ロ) 昭和三三年小野博が中風で倒れてから昭和三七年一月同人死亡に至るまでの間。

この間は、経営者名義(開設者)は小野博であるが、実質的には、小野アイが実妹の夫小林を管理医師としておき、経営していたもの。

(2) 昭和三七年一月小野博死亡後、昭和四三年六月小野博人の開業にいたる間。

この間は、小野歯科医院の開設者は小野アイであり、同人が経営主となって、管理医師をおき、経営管理していたもの。

(3) 昭和四三年六月小野博人の開業届より昭和四七年一月末日までの間。

この間は、経営主体は小野博人であり、同人が歯科医師を雇って直接経営した形体のもの。但し、同人は、医師として診療に従事しており、実質的経営は、小野アイがしていた(なおこの間には博仁会の設立届がされている。

(4) 昭和四七年二月一日より後、現在に至るまで。

この間は、医療法人博仁会が経営主体。但し、その出資者は実質は小野アイであり、理事長小野博人は、診療行為にあたり、直接経営にはほとんどタッチしていない。同人がかかわりをもったのは、診療行為以外は、主として医師の雇用に関することのみにすぎず、経営主体は小野アイであり、特に金銭については一切関与していない。

3 右の経過によっても明らかなように、小野アイは、昭和三三年亡夫博が盛業中に中風で倒れた後は、自ら医院の経営にたずさわり、博が昭和三七年に死亡後は、管理医師をおいて経営はしているものの衰微してゆく小野歯科医院について、長男博人が成人し、歯科医師の免許を得てこれを再興することを生きがいとして生きてきたのであった。また、阿倍野の本院が昭和九年頃より使用している建物で老朽化が甚だしくなったので、これを建替えることに夢を託していたのである。

こうして、小野博人が昭和四三年四月念願の歯科医師の免許を得て、間もなく小野歯科医院を経営することになっても、弟の博治はまだ学生であり、妹も片づいていない当時として、その経営上の実権は、依然小野アイが一手に握っていたことは容易に想像されるところである。このことは、原審の記録の中で、小野アイ、鎌田美穂子、小野博人らがいずれも裏付けて述べているところであり、疑う余地はない。それなればこそ、原審においても、小野博人においては、「小野アイと共謀のうえ」と訴因を変更せざるを得なかったものである。

(二) 博仁会の設立の動機及び運営について。

1 博仁会は医療法人の形をとっているものの、これは、実質は小野アイ、小野博人、小野博治、小野晴美、鎌田美穂子ら小野家の同族経営にかかるものであり、経営の実権は小野アイが握っていたものである。

このことは、その発起人及び出資者及び理事が前記の小野家五名及び勤務医一名(善睦彦)であること、監事の一名は前記アイの義弟小林繁信と亡博以来の顧問税理士である久保博信であること、出資の全額を小野アイが出したこと、理事とはいっても、実質は、前記小野家のもの(晴美もこれに加わる)によって、運営がなされていること(この理事会の議事録や、総会の議事録は形式的に作成され、理事長たる小野博人の記名押印はすべて小野アイの筆蹟でなされている)。殊に、金銭関係については、小野アイは自らが直接管理し、他のものについては、理事長の小野博人にさえも内密にしていたこと、松原分院等を設置する際に必要な賃貸借契約書の小野博人の署名が小野アソの筆蹟であり、また博仁会振出の手形小切手の振出人である理事長小野博人の署名が同様アイの筆蹟であり、小野博人はこれに直接していないこと等から明らかである。

2 医療法人博仁会設立の動機

そもそも博仁会が設立されたのは、その実質は、歯科医、看護婦、事務員等の人材の募集特に歯科医の募集を便ならしめるためであった。

(1) すなわち、昭和四七年五月一日当時(松原分院設置)を例にとれば、その人員は次のとおりであった。(検察官の冒頭陳述書記載の起訴当時の人員とほとんど変らない)。

歯科医師 看護婦 技工師 事務員

本院 四 六 三 一

天下茶屋分院 一 二 〇 〇

松原分院 三 五 三 一

(2) なお、本院の事務員は、博仁会が昭和四七年二月一日に発足したときは鎌田美穂子一人で、アルバイトが若干あった程度、松原分院ができた同年五月当時は、松原分院に中西令子がいたのみで、同年八月に前記のように梶岡が採用され住吉の自宅にいた上、同年九月に中尾(男)が採用され、一年足らず本院の事務の補助をしていた。天下茶屋の分院は、前記自宅の近所であり、ここには事務員はおかず自宅から適宜連絡をとり、見習看護婦が若干の事務を兼ねていた。これらの本院分院の事務は小野アイが統括していた。

(3) ところで、この歯科医師の資格を有しながら、自ら開業せず、他の歯科医院に勤務する、いわゆる「勤務医」の数は極めて僅少であり、そのため、歯科医院の経営のためには、この勤務医の獲得が不可欠である。そして、この勤務医の獲得のためには、個人経営の歯科医院ではどうしてもその条件が悪いと目され、医療法人の形態をとっていないと都合が悪く、このことは、看護婦やその他の従業員の獲得についても同様であった。

(4) こうして、博仁会を設立することが企図され設立されたのであるが、その意図が右にあったため、対人的には法人とか理事長とかの装いをしていても、その実態は従来どおり小野アイが実権を握っていたものである。また、小野博人の役割は後記のように診療行為のほかは、この勤務医の獲得のため渉外行為をすることにつきていたのであった。

(三) 小野博人の職務の実態

小野博人の職務については、ほぼ次のとおりである。

(1) 診療行為

同人は診療行為としては、本院のそれを統括し、自らも診療行為にあたっている。同人は、朝八時一五分ないし二〇分頃住吉区万代の家を出て八時五〇分までに本院に入り、その後は夜間診療も行っているため、診療行為に追われ、午後八時すぎごろまでこれにかかるのがほとんど毎日の日課であった。(診療時間は本院分院とも午前九時から午後八時。この間午後一時より同二時までの一時間が休憩時間である)。

(2) 渉外行為、その他。

そして、右の多忙な日常診療のあい間に機を見て前記勤務医師の獲得のために、各歯科大学の教員と接触し、好意ある配慮を要請することが同人の重要な渉外的役割であり、その他のことは、歯科材料の過不足につき、これをきかれたときに指示する程度のほかは一切関与せず、また、そのいとまもなかったのである。そこで、日常業務の特に経理事務や金銭関係については一切タッチせず、母小野アイに任せていたのが実態であった。

(四) 小野アイの事業活動

1 小野アイは、前記の小野歯科医院の個人経営時代(小野博死亡前後より)及び医療法人博仁会のすべてにわたり、その実質的経営者としての実権を握っていた。このことは、前記のとおり、法人になってからも、その出資は小野アイが全額の金を出し、理事は名目にすぎず、運営機関としての理事会なるものは、定款上は規定があっても実際には開かれず機能していなかった。金銭関係は、すべてひとり小野アイが握っていたこと、さらには、理事長である小野博人や理事である小野博治の給料さえも法人からの支出はあるものの、実際には、アイが押えて管理しており、小野博人らは、これから必要のつど受取るような実態であったこと(小野アイ検察官調書)、小野アイが交通事故で入院した昭和五〇年七月六日以降でさえも、入院先に金と伝票を届けさせたこと(鎌田美穂子同年一一月二六日付質問てん末書)等からしても明らかである。

2 ところで、小野アイが実権をもっていた経理事務、特に当日の売上げを受取り、これを簿外金と正式収入金とに分ける作業については、本院の方は鎌田美穂子がやり、松原分院の方は、当初小野アイが自ら、梶岡秀年が博仁会設立後間もなくの昭和四七年八月採用されて以後は、同人が小野アイの指示に基いて、その以前は、小野アイが自ら行っていた。

3 松原分院については、同分院も朝九時から夜八時すぎまで診療を行い、その頃は事務員は、いないので、当日の売上金をもって帰るのは弟小野博治であった(同人は松原分院ができて間もなく、ここの責任者となっている)。同人が夜九時過頃、住吉区万代の自宅に、この売上金を持帰り、これを小野アイに渡し、同人が翌朝この自宅の離れにある事務所に出勤してきた梶岡にこれを渡し、指示して簿外収入と表の経理に入れる分とを分けて記帳事務をするのであった。

4 天下茶屋分院(昭和四五年八月から設置され、同四九年一二月で廃止された)の売上金については、小野アイの自宅から近いこともあるので、適宜事務員に届けさせたり、こちらからアイや梶岡らが取りに行ったりしていたものである。そうしてこれは松原分院の分とあわせて前記の松原分院のと同様の経理がなされたのであった。

(四) 重要な事実誤認-本院の事務所の移転について、

1 ところが、この点原審記録によれば、大きな間違いがある。

(1) 梶岡秀年によれば、「天下茶屋分については毎日の売上金額及び現金収入については、翌朝出勤した時、本院の院長小野博人より前日の売上金といって手渡されます…………天下茶屋分院の現金収入除外は、私が院長小野博人の指示によって行っておりました」(梶岡、昭和五〇年一一月二六日付質問てん末書問一二、一三の答)、「私が博仁会に入ったときから、両分院の経理事務は本院で、本院の経理事務と共に行っていました…………毎朝九時過に、院長から松原、天下茶屋両分院の前日分の診療報酬として、現金と入金伝票を手渡されるので、私はその中から適宜一部として裏に廻していたのです」(梶岡、検察官調書)、また、「阿倍野にある本院の分は、そのまま記帳されて、松原分院の方は、私の手元にきてから分院の分については売上から一部除外する分ける操作をして売上除外分を除いた分を正規の帳簿に載せていました…………。私が院長に渡していたのは、売上除外分の現金と、それに見合う伝票を渡していたのです」(第三回公判調書、梶岡証言)という(この松原分院における収入除外分の伝票や現金を梶岡から受取っていたことが、原判決では小野博人のアイとの共謀があったとの理由の一にあげられている)。

(2) こうして、小野博人は、松原分院の売上金を受取ったり、さらに本件の簿外収入金の捻出操作について、関係していたとされるのであるが、その事実はない。それはすべて小野アイがなしたのであった。

2 事務所の本院への移転

(1) このことに深い関係をもつのは、法人の事務所が昭和四九年一二月までは、住吉区万代の小野アイ方の離れにあり、それ以降初めて本院の裏に移った事実である。

(2) 原審記録には、このことは全然現われていない。そして、昭和四七年八月から梶岡が事務長として就任後ずっと本院で事務をとっていたとして、この前提の下に、原審の事実は組立てられている。

即ち、原審において、刑事訴訟法第三二一条一項二号により証拠として採用された唯一の梶岡秀年(事務長)の前記検察官調書によれば、「私が博仁会に入った時から、現在迄、両分院の経理事務は、すべて本院で本院の経理事務と共に行っていました」(第二項)、「私が院長の指示によって、裏に廻みていたお金は、松原、天下茶屋両分院分の現金収入のうち、自費診療収入金についてでありました…………私が事務長として入った一カ月程度の夜だった…………私が何かの用事で万代西二丁目の本宅に行った際、応接室で院長から収入金の一〇パーセントから一五パーセントを抜いて経理するよう云われました」「毎朝九時過に院長から、松原、天下茶屋両分院の前日分の診療報酬として現金と入金伝票を手渡されるので、私は、その中から、適宜一部を裏に廻していたのです」、「裏に廻した分の現金については、その分に相当する伝票を院長のお母さんである小野アイさんに、同人が留守の時は、院長に見せて、裏に廻した金額を説明して伝票によって確認してもらい、裏に廻した現金を小野アイさんが院長に手渡し、その分に相当する入金伝票は、私が破りすてるか、焼きすてるかして処分していました」(同、第四項)というのである。

(3) 右のうち、重要な点は、梶岡が事務をとっていた場所と内容である。

前記のように、梶岡は、「私が博仁会へ入ったときから現在まで、両分院の経理事務はすべて本院で、本院の経理事務と共に行っていました」といい、「私が何かの用事で万代西二丁目の院長の本宅に行った際、応接室で院長から収入金の一〇%から一五%を抜いて経理するように云われました」(前記検察官調書)といって、梶岡が執務していた場所がずっと本院であるかの如く述べている。

(4) しかしこれは事実と相違する。

事実は、昭和四七年八月梶岡が博仁会に採用された後昭和四九年一二月に本院の裏に看護婦の寮を改造して、その寮の階下に本院の事務所を移すまでは、梶岡が事務所として勤めていたのは、住吉区万代の小野アイの自宅の離れにあったのであった(このことは、原審では少しも問題にされていなかった)。

(5) このことは次のことに重要なかかわりあいをもつ。

(イ) 前記のように、博仁会の診療時間は、(本院分院とも)午前九時から午後八時までであり、小野博人は、毎日午前八時一五分から二〇分頃に家を出て、午前八時五〇分頃には、本院に着き、午前九時から診療にかかり、夕刻八時までこれに従事する(この間午後一時より二時まで休憩をとるのみである)。

(ロ) 他方、梶岡は、前記のように午前九時から午後五時までの執務時間であり、その勤務場所は、昭和四九年一二月までは、住吉区万代の自宅であって本院ではないのであるから、梶岡が出勤したころには、既に小野博人は家を出た後であり、同人が夕方八時半ごろに帰宅したころには、既に早く梶岡は帰ってしまった後になる。

こうして、小野博人と梶岡は、日常業務として顔を合わせることは先ずないのである。

(6) また梶岡は、関西大学法学部卒業後すぐ(昭和四五年四月)マルカキカイ株式会社に入社(営業担当)、同四七年八月にここを退職し博仁会に入ったもので(梶岡昭和五〇年一〇月一六日付質問てん末書)経理事務に従事したことなく、これを事務長という名目にしたのは、弟小野博治の学友であるということによるにすぎない。従って、同人を住吉区万代の自宅の離れで執務させたのは、当時実質的に事務長としての能力があったからではなく、本院、分院にはそれぞれ事務員もいたので、いわば事務見習として入り、その事務も「一般経理事務…………が主な仕事で…………その他に技工師見習看護婦雑役夫等の雇用募集関係の仕事をしていた」(前同)にすぎない。

従って、事務長といっても重要な職員として常に院長(理事長)を補佐するため常時近くにいる必要はないし実質的には、小野アイの指示をうけて前記の仕事をしていたのみである。また、仕事の性質上残業の必要もない。

(7) この点からみても、小野博人は、梶岡と顔を合わすことは全くなく、梶岡が述べており、原判決が共謀の証拠としている「松原分院における収入除外分の伝票や現金を梶岡秀年から受取っていたこと」はあり得ず、真実に反する(このことは、前記検察官調書が刑事訴訟法第三二一条一項二号により採用されているが、この採用につき、その採用の理由が明確でない-実質的なくいちがいがあるとされるのはどの部分か、また特に信用すべき状況とは何か-こととあいまって問題があることを推認させる。また、前記梶岡供述と合致する小野博人の質問てん末書及び検察官調書についても同様自白の真実性ないし任意性を疑わしめるものがある)。

(8) なお、梶岡が本院裏の看護婦寮の階下に移ったのは昭和四九年一二月のことであるから、本件公訴事実のほとんどは、ここに移る前のことであり、前記のように梶岡の供述が真実に反し、信用できなくなった以上、この後のことも同様措信できないものと云わねばならない。

(六) 自費診療収入の売上一部除外について、

1 いわゆる売上除外の指示について

(1) 原判決はこの点につき、一方で「被告法人における金銭の出納・管理などその経理面については主として小野アイがこれを掌握しており」としたうえ、これにつづけて「鎌田美穂子や梶岡秀年に収入除外を指示し」ていたのも「主として小野アイであったことがうかがえるのであるが」と判示しつつ、他方で被告人小野博人に関する諸事実を指摘したあと、「これらの事実に照らすと、被告法人における具体的な収入除外を指示した者が誰であったかの点は別としても」として、結局被告人小野博人が右収入除外を指示したのか否かについては明確な判断を示していない。

しかし、原判決が小野博人につきアイとの共謀を認定した理由が既述の如くいずれも事実に反するものとすれば、収入除外の指示をしたか否かは重要な意味を帯びてくる。

(2) そこで結論から言えば、被告人小野博人は鎌田美穂子や梶岡秀年に収入除外を指示したことは決してないものであることをまず明らかにしておきたい。

以下これを具体的に検討する。

第一に、ここでは改めてくりかえさないが、被告法人の設立に至るまでの経過、とりわけその中でも小野アイの歯科医院“経営”の長い経験、実績、被告法人設立に果した役割、原判決も認める如く被告法人における金銭出納、管理などの経理面における実験、さらには博人、博治ほか小野家の個人の給料、預金等まですべて小野アイが掌握、管理していた事実に照らせば、小野博人が収人除外を指示するなどといった余地は全くないものであることがうかがえる。

第二に、小野アイによれば、売上除外の指示は同人が行っていたことをはっきり認めている(第四回、第五回証人調書五一・五・一〇付検察官調書四項、五〇・一〇・一四付質問てん末書問四~五の答)。

第三に、右の点は鎌田美穂子の証言によっても裏付けられている(第三回公判における同証人調書)。

もっとも鎌田の五一・五・六付検察官調書や質問てん末書中には小野博人の指示によるものである旨の供述があるが、この点は、右の第三回公判における証言によって明らかな如く、当時小野アイが交通事故で入院中であったため、これをかばう意味で述べているにすぎず、事実に反するものである。

第四に、ここでとくに指摘されるべきは、売上除外の指示を受けた者についてである。被告法人の本院分については鎌田美穂子であること右の通りであるが、松原分院分については捜査段階以来原審まで一貫して梶岡秀年であるかのようになっているが、事実は小野アイがこれを自からやっていたものであって、梶岡が売上除外を行ったという事実はそもそもないのである。

この点は○の(一)1においてすでに述べたところでもある。梶岡秀年の証言はじめ、検察官或いは大蔵事務官に対する各供述にいずれも一貫性がなく、或いは日持、金額等が不明確な根拠はここにある。そして、松原分院の収入除外金については小野アイが直接自分でやっていたことは鎌田の第三公判における証言中からもうかがえる。例えば、「売上の一部を除外じたらどうかといわれた具体的言葉は。」との問に対し「アイがしているのを見てそれを私が手伝うようになりました」とか、「アイは院長の母でもあるし、事実上母が経理を握っていたので、私もアイと一緒にやっていたのです」とあり、さらに松原分院や天下茶屋分院の関係については、「アイが一括してやっていました」とあるところである。

他方、第三回公判における梶岡の証言によれば、売上除外をやり出した時期については「わかりません」とか、昭和四七年八月に勤務し始めて「二、三ケ月経ってからです」とか述べる一方、さらに小野アイから指示を受けたのはいつ頃かについては「時期は記憶ありません」などといっている。

そこで、仮りに梶岡が入社後二、三ケ月目から松原分院の収入除外を小野アイの指示でやり始めつつ、松原分院分についてはそれまでやっていなかったということになるが、そのような時期的な差がどうして出てくるかわからない。事実松原分院には梶岡の入社以前から畠山が受付の担当をしていたのであるから、同人にアイが指示しようと思えば出来た筈だからである。

さらに、梶岡は入社当時経理には全くの素人であったから、二~三ケ月で売上収入金の一部を除外して仕分けすることなどがそもそも出来る道理がなかったのである。

こうして、事実は松原分院の収入除外については小野アイが自からやっていたのであり、梶岡がやったことはなかったのである。従って、売上除外の指示なるものも、そもそも梶岡にはされていないのである。

それゆえ、梶岡に対する小野博人の指示ということはそもそもあり得ないというのが真実である。

(3) かくて、収入除外の指示について小野アイが本院分については鎌田美穂子に行ったことがあるのみで、松原分院分については自からやっていたため、小野博人としては収入除外についての如何なる指示もした事実がないものである。

2 売上除外の方法及び除外金の管理について

(1) 売上除外の方法については、鎌田とアイが自費診療収入金のうちから、毎日その一部づつを除外し、除外した現金分は小野アイが伝票を破るなどしていたものである。その割合について、梶岡その他関係者より売上の一〇ないし一五%といった数字が挙げられているが、これは修正申告をする段階で結果からいってそのような額であったというのみで、必ずしも毎日一定した基準が決められていたわけではない。この点は小野アイの証言等に照らして明らかである。他方、これに反する梶岡の証言や供述等は前記事情に照らして措信し難いものである。

従って、小野博人が除外の方法、割合ないし基準等を指示した事実もない。

そして、この除外金については、すべて小野アイが受取っていたものであり、小野博人が受取ったことがないことは、すでに述べたとおりである。

(2) 売上除外金の管理、使用について

売上除外金の保管ないし管理については小野アイがこれをすべて仮名預金等によって一切を行っていたものであり、このことはアイの五一・三・三付質問てん末書問一一、問一二、五一・三・一八付問五に対する答、五一・五・一〇付検事調書六項さらには同人の第三回及び第四回公判調書によって明白である。とくに小野アイの公判調書によれば、右預金は三和銀行阿倍野橋支店、或いは富士銀行松原支店の仮名預金としており、その預金証書や印鑑はすべてアイが三和銀行の貸金庫に預けるなどしていたというものである。

右の点は小野博人の質問てん末書(例えば五一・三・二付問二)や検察官調書(五一・五・一一付四項)等でも一貫して述べられているところである。

そして、これら仮名預金についてアイは一切これを誰にも知らせていなかったもので、博人すら税務署からの調査があってはじめて知らされたものである(五一・五・一〇付小野アイの検察官調書一二項、同人の第三回公判調書五丁、七丁、小野博人の各質問てん末書、検察官調書五項)。

右の次第であるため、小野博人としては売上除外分について一切関知したことはないものである。

ちなみにこれまでしばしば述べた通り、金銭の管理については小野アイは単に被告法人の売上除外だけでなく小野博人や博治ら家族の金銭についても一切これを掌握していたものであることを改めて指摘せねばならない。

これについて、小野アイによれば「私が金銭のすべてを管理しており、法人、個人のお金全部を管理し、入出金、支払い関係についても総べて私を経て行っております」とか、「私達家族の手持現金は…………私が預り管理し、各人の入用に応じて、そのつど渡しており、生活費等の入用金額を手許に残して余りのお金は翌月初めに私達各人の普通預金口座に入金しておきます」という状況であった(同人の五一・三・三付質問てん末書、問一〇~一二、同旨五一、五、一〇、付検察官調書六項)。

従って売上除外金の支出については勿論、その他家族の個人名義の預金等についてもその支出は全て小野アイの了承があってはじめて可能であったのである。

これまた小野アイによれば、「私が金銭の総てを握っていて、出し入れについても私を経なくては一銭の金銭も動きません」(同人の五〇・一二・一五、付質問てん末書問八)とか、「裏に廻したお金からの支払いについては私の許可がなければできない仕組みになっていました」(五一・五・一〇、付検察官調書六項)ということである。

要するに、小野アイが法人・個人を問わず金銭のすべてを完全に掌握していて、法人・個人とも必要な支払分についてはその都度必要分づつ出してもらっていたのが事実である。とくに博人は名義上法人の理事長とされてはいても、決められた給料すら小野アイから全額もらっていたわけではなく、子供が生まれるまでは月五万円程度の小遺いだけで、子供が昭和四八年一二月に生まれてからも一〇万円が生活費として余分に渡されるようになったにすぎないこと既述のとおりである(小野博人の五一・三・二付質問てん末書問二)。

(3) 以上の如く、売上除外の指示から始まって管理・使用に至る一連の関係はすべて小野アイの専権にもとづき、独自に行われていたというのが誤りのない事実であって診療行為に追いまくられ、これに専念せざるを得なかった小野博人としては、被告法人の経営ないし経理については経験と実績のある母に委せ切っていて、とりわけ売上除外といったことについては一切関与していなかったものである。

三、いわゆる「共謀共同正犯論」について

1 以上に述べた如く被告人小野博人は本件犯行に関し、小野アイと共謀した事実は存しないものであるが、原判決はいわゆる共謀共同正犯論を採用し、被告人小野博人に小野アイとの「共謀」の事実が存し、同人も共謀共同正犯である旨認定している。

そこで、仮りに被告人小野博人が本件犯行に何らかの関連があるとしても、そのことが軽々に「共謀共同正犯論」と認定されてはならないものであることを強く主張するものである。

とくに本件の原審においては、もともと起訴状に「小野アイと共謀のうえ」なる文言が存しなかったところ、審理の最終段階に至って、急拠訴因を変更して右文言が追加されたものであり、このことは「小野アイとの共謀」なるものを持ち出さなければ公判維持に支障を来す実状であったことを物語っている。

その意味で本件における「共謀」の認定は極めて重要な意味をもっていたものである。

2 ところで、いわゆる「共謀共同正犯論」に関しては学説上、憲法三一条、刑法六〇条の解釈、さらには共犯理論等をめぐって様々な議論の存するところである。

ここでは右の憲法論等に言及するつもりはないが、判例上確立されたといわれる右理論に関してもおのずから一定のしぼりがかけられるべきであることは学説上ほぼ一致して指摘されているところである。

共謀共同正犯に関まる判例中、いわゆる練馬事件に対する最高裁昭和三三年五月二八日大法廷判決は、「共謀」の意義につき次のように判示している。

即ち、「共謀共同正犯が成立するためには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よって犯罪を実行した事実が認められなければならない。したがって右のような関係において共謀に参加した事実が認められる以上、直接実行行為に関与しない者でも、他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行ったという意味において、その間刑責の成立に差異を生ずると解すべき理由はない」と。そして学説は右判例が「共謀者の正犯性の認定に相当程度の絞りをかける方向をとるものと思われる」との点から注目するに至った。

而して、右判例の趣旨からすれば、単に情をうち明けられ了承したとか、他人の犯罪遂行に単に加担するだけの意思をもって犯行の相談に加わった者については、共同正犯性を否定する方向を示すものと評されているところである。

従って、共謀者の意思内容としては少くとも実行者に対して共同意思による心理的拘束を及ぼし、その結果自からの犯罪意思を実現しようとする意思、換言すれば右判決にいう「共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し各自の意思を実行に移す」旨の意思を各関与者が有することが必要であると言うべきである。

そして典型的には、役割の分担についての協議が為され、或いは実行方法についての計画作成などが具体的に為されるなどした場合に、はじめて右の共謀なるものがあったと認定しうるものであることが想起されるべきである。

3 しかるときは、本件において原判決認定の根拠として挙げられた諸点は既に詳述したとおりいずれも事実の認定に誤りがあるばかりでなく、これを否定する積極的理由が多数存し、右最高裁判決に照らせばいずれにしても本件において被告人小野博人にいわゆる「共謀」があったとは到底いえないものである。

これを原判決の罪となるべき事実の摘示に沿って再度整理してみれば次のとおりである。

まず第一に、公訴事実第一ないし第三に共通する部分として原判決が「被告人小野博人は同法人の理事長としてその業務全般を統括しているものであるが」と認定している点についてである。しかし、この点はすでに述べたところから明らかなとおり、被告人小野博人が名義上同法人の理事長とされているにすぎず、従って法形式上その業務全般を統括すべき地位にあったというにすぎないのに、同法人の経営実体を度外視し、法形式上ないし名義上法人の理事長たる者は当然に「その業務全般を統括しているものである」との結論を導くに至っているもので、明らかな誤認である。

この形式的な認定が基本となって、結局被告法人の 脱については、その業務全般を統括していたはずの理事長は当然知っている筈だとの推論となり、小野博人自身の起訴、さらには小野アイとの共謀という理論構成が為された疑いがつよい。

第二に、公訴事実第一ないし第三で認定された具体的事実関係についてみれば、例えば右で指摘された各事業年度における被告法人の所得金額がそもそも指摘のごときものであるか否かについて、被告人小野博人としてはこれまで述べた如き事情から事実知らなかったし、ましてやその所得金額に対する法人税額がいくらであったかもわからなかったものである。

第三に被告人小野博人としては、「公表経理上自費診療収入の一部を除外」することを話し合ったり、指示したこともないこと既述のとおりであり、加えて被告法人の収支関係の全てが小野アイの完全な統括下に置かれていたから、果して右収入の一部がいつ、どのようにして除外されたのか、また果して除外されていたか否かもわからなかったものである。

その上、右除外金についてはそれこそ完全に小野アイの専権的な管理下にあったから、被告人小野博人としては、右除外金が「仮名又は無記名の定期預金をするなど」されていたなどは全く知らず、被告人小野博人の関係調書に照らして明らかな如く税務署の調査があってはじめて小野アイから聞かされたにすぎないものである。

第四に、被告人小野博人としては以上の事実を全く知らなかったから、各事業年度における法人税確定申告書に形式的な署名・押印をしたにすぎず、それが虚偽の申告であるか否かも全くわからなかったものである。

4. かくして、被告人小野博人には本件に関して具体的構成要件該当行為の認識が殆んど存せず、従って単に情をうち明けられて了承したとか、単に他人の犯罪に加担するだけの意思をもって犯行の相談に加わったという事実すらなく、ましてや前記最高裁判決で判示された如き、或いは実行者に対して共同意思による心理的拘束を及ぼし、もって自からの犯罪意思を実現しようとする意思といったものは全く認められないのである。

四、以上これまで述べてきた諸事実と右の共謀共同正犯に関する点を併わせ考えれば、被告人小野博人については本件に関し、小野アイとの「共謀」の事実が存しないことは明らかである。

従って、原判決が小野博人について共謀の事実を認定したうえ有罪の判決を為したことは事実を誤認した結果によるものであり、この点において原判決は破棄を免れないものというべきである。

五、博仁会の逋脱税額について(事実誤認-未払敷金の未計上)

原判決には判決に影響を及ぼすべき事実の誤認がある。

(一) 原判決は、その認定した第一の事実において、昭和四七年度(同年四月一日から昭和四八年三月末日までの事業年度)の所得金額が二二、九八三、四五七円、これに対する法人税額が八、一八三、七〇〇円であることを認定しているが、この計算については、博仁会が小野博人(個人)に支払うべき松原分院の賃借保証金三〇〇万円を未払債務として計上していない誤りがある。

(二) 博仁会は、松原分院設置のため、昭和四七年四月一日小野博人との間に要旨次のような建物賃貸借契約を締結した。

1 小野博人は、その所有する左記建物を医療法人博仁会に賃貸し、博仁会はこれを賃借する。

松原市阿保三丁目二七六番一号

鉄筋コンクリート三階建一階の一部及び二、三階全部

2 賃貸借の期間は、昭和四七年五月一日から、昭和五六年四月三〇日までの一〇年間とする。

3 賃料は、一ケ月金二〇万円とし、毎月末日に翌月分を先払とする。

4 賃借人博仁会は、敷金として金三〇〇万円を賃貸人小野博人に差入れるものとする。

5 賃貸借の目的は、歯科診療所及び住居とする。

(三) しかるに、博仁会は、右敷金三〇〇万円を小野博人に支払っていない。公判廷において提出する予定の前記昭和四七年四月一日付建物賃貸借契約書-これは、大阪府知事が昭和四七年四月一九日付で認可した博仁会の定款変更認可書に添付されているものであり、現に大阪府庁に保管されているものの謄本である-には、これが同年四月一日の契約の際博仁会から小野博人に支払われているかの如き記載があるが、これは支払われていない。それは、この契約書が添付されて同年四月七日に定款変更-松原分院設置のため診療所の名称及び開設場所の変更に関するもの-の認可申請がなされ、同年四月一九日にこれが認可されたことは前記のとおりであるが、この認可がないのに、この松原分院が開設されたとして賃料を支払うわけにはいかないことと、さらに、前記のとおり、博仁会は同族経営であるのでこれを契約どおりの期日に受取らなくても差支えない実態から当時は支払われないまま、市販の「受領ずみ」なる趣旨の用紙を用いて契約書が作成されたにすぎない。

(四) したがって、これが昭和四七年度分の未払金として計上されねばならないところ、これが計上されていない。

このことは、検察官の冒頭陳述書第五立証方法の5未払金欄に計上されている未払金は小野博人に対する医療機器の未払賃借料のみであること(当期の未払金増加額金四七一、六〇〇円)預け金としてこれが計上されていないことからも明らかである。

そこで、この未払敷金三〇〇万円を未払金として計上し、修正計算をすれば、昭和四七年度分については所得額は三〇〇万円減となり、これにともない、相当逋脱額も少くなるはずのものである。

第二、量刑不当について

一、原判決は刑の量定が不当であり、刑事訴訟法三八一条に該当する事由がある。

すなわち、原判決には第一で述べた如き事実の誤認があり、被告人小野博人については共謀を認定したこと自体が問題であるが、仮りに万一小野博人にも何らかの刑責があるとされる場合でも、すでに指摘した如き重要な事実を誤認し、これを前提として為した原判決の刑の量定は不当であるといわねばならない。

のみならず、被告法人についても第一の五で指摘した如き事実の誤認があるうえ、両被告人については下に述べる如き事情が存するから、いずれにしても本件に関する原判決の刑の量定は重きにすぎるものである。

二、情状について

1 修正申告と再修正申告との違いがほとんどないことについて

(1) 小野博人は、昭和五〇年八月二六日ごろ博仁会の取引銀行である三和銀行阿倍野橋支店に国税局の調査があったことを母小野アイから聞かされ逋脱していることを知ったのであるが、直ちに同年八月末日修正申告をなした。

(2) そして、その後本件捜査の結果に基き昭和五一年四月一九日修正申告し、本税、同年六月三〇日加算税及び延滞税を納付した。

(3) ここで注目願いたいのは、この自発的な修正申告と再修正額との間に殆んど差がないことである。

(4) そして、この違いは、僅かに募集費の一部がそう認められず、これが交際費とされ法定の限度額を超過していると認められたため損金に算入されなかったことによるものであって、いわば単純な費目選択のミスによるものにすぎない。

2 右の事情及び前記縷説した本件全体の犯情を見るとき(仮りに被告人小野博人について無罪でないとすれば)被告人両名に対する量刑は不当に重すぎると思料する。

御勘案の上、相当寛刑を賜りたい。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例